昭和五十六年七月九日 朝の御理解
御理解第四十一節
信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい。
話を聞くだけが能ではない、我心からも練り出すがよい。話を聞くだけが能ではない。如何に話を聞いて助かる道と云うてもその話が、その教えが行じられなければ守らなければということなんです。話を聞くだけでは耳が肥えるだけね。だからそれを合楽の言葉で言うと実験し実証していかなければならないね。同意時に練り出すと云うことは本気で教えに取り組ませて頂いておる。例えば成り行きを尊ぶとか、大切にする、黙って治めるといったような事でも実際、その気になって当たっておると、ここをどうしたら本当だろうかとあのう、迷うような事が必ずあります。ね。又分からなくなってくることがあります。
所がです。不思議に実験しておりますと、云うならば仕事が仕事を教えると云われますように、不思議な世界が開けてくるんです。はあ、これだったんだなぁと今までお話に聞いた事もないけれども、自分の心から開けてくる。練り出すということはだから、本気に教えに取り組んどなければ練り出される事ではない。こりゃ皆さんも体験がありましょうが。寝ながらいろいろこういいことを考えよります。特にお風呂に入ってじっとこうああ極楽と云ったような気持ちで頭の中に、信心の事を思いよると、何かえらい素晴らしい事が頭に浮かんでくることがあります。寝ながら眠れん時やらいろいろ信心の事を考えておりますと、なかなかよい、云うならまあアイデアが浮かんでくることがございます。
所が不思議です。お風呂ん中やら、床ん中で浮かんだアイデアは絶対よくないです。いかにもよかろうごたるばってん、よくないです。
先だっても日田の方で想夫恋というやきそば屋をしておる。お願いをしてまあ、大変繁昌しておった。信心が途絶えると、がたっと落ちるんですね。それでもやっぱ、信心が落ちたからと思わないわけです。いろいろ工夫した。丁度取り上げの真っ最中であった。まあ田舎に近い町ですからね、日田というのは、それで参って来てから、先生こういうアイデアと云うか、今まで人がやった事のない、商売方法、チラシを配ろうと思います。どういうチラシを配るかというからね、その皆がお百姓さんが田園にでておる。だから田園にも出前を致します。これなら当たるだろうと思う。皆が喜ぶだろうと云うわけであります。
けれども何々さんの所の田園はどこどこと聞いただけでは、町の名前くらいならわかろうばってんね、尋ねたら、田園に尋ね求めてしていきよるなら、冷えちしもうちから、美味しゅうなかごつなりゃせんちのち私が云うちから、そうですなぁち云うちから又明くる日参ってきてから、先生ありゃ取りやめました。ね、楽をしながら考えた、浮かんだアイデアと云う物は実につまらんです。試してご覧なさい。
一生懸命働いておるとき、一生懸命に教えを行じぬこうと精進しておる時に、ひらめいてくるもんなら、ほんなもんです。いわゆる我心から練り出すというても、寝ながらどもならば、練り出したのではつまらんと云うことです。話を聞くばかりが能では無いということはね、話を聞いたら、それを実行しよう、実験してみるとそこから、練り出されてくる物があるぞと云うわけであります。ね。
昨日は久留米の共励会でしたけれども、ご承知のように一時から夏期信行がございます。それでほとんどがここへ丁度その時間に、ここに参って参りますから、場所をここにお借りして合楽教会で久留米支部共励会を開きたいと云うお願いが合っておった。先だってはくノ一会もそうなさいました。ここの共励殿でまあなさいました。
私は会が終わって皆ここに御礼にでてみえてから、お届けを聞かせて頂きながら感心した事がある。というのは、昨日の総代さん達のお届けが高山トモエさんという婦人総代がここでお取次を願った。その中にいつもお届けをするどの総代さんでも同じような事を云う中に、只今夏期信行中でございます。どうぞ一人でも多くの信者さんが集まられ修行に参加が出来ますようにと云うお届けが加わっておった。初めて私もそれを初めて聞いた。
所がそれを後ろで聞いておった、おられた久留米の井上さんがね、昨日は親戚の呉服しおる所の展示会があっておる。そこに自分の娘が行っておりますから、その孫達二人を守りしげいかにゃならん毎日、けども今日はあの高山さんのお届け聞いておったら、一人でも多くの御信者さんが夏期信行に参加が出来ますようにということは一人でも多いと云うことは、そのまま合楽の御比礼だと思うたらこちらの方へ通うてこなければおられなかったという発表が昨日久留米の共励会の時に発表せれたと云う話をここで聞いたんです。
どうですか皆さん。別に私の話を聞いたと云うわけではないけれどもです、総代さんのお届けの内容に触れた時にです、こう奮い立つ心と云うか、本当これが本当だと思う事をすきっと心の中に定めて、それを私は実行実験に表していく。そういう物がね、信心にはいるんです。
ほっと気付かせて頂いたことを、それを実行する必ず実証が生まれる。ね。いわゆる練り出すことが出来るんです。成る程ね、神様の用を足しゃ、氏子の用は神が足してやるとおっしゃるような、まあ云うならば、体験、本当なことをとこれが本当だけれども、今日は忙しゅうございますから、こう云うて、忙しかろうけれども、やはり本当なことを取っていく事が信心なのだと云うことですね。体験される事がでけると思うです。
話を聞くばかりが能ではない。というのは話を聞いただけで実行しないならば、なんにもならないぞと云うことである。話を聞いたらそれを実験し、実行してみよ。そこから必ず練り出される物は、自ずといわゆる仕事が仕事を教えるように、信心が信心を教えてくれておかげになってくるんだ。
先だっても林さんが、先生黙って治めるということも本当、いろいろ行き詰まって分からん時がございますというお届けがあった。どう云うことじゃったかというたら、先日子供が、子供もまあ参ってくるんです。お母さんぼくはこの頃身体がね、もうバラバラに崩れるごときつかとこういう。ね。そういう時に、親として黙って祈るということが黙って治める事だろうかとこう云うのですね。皆さんはどう思われるですか。
たとえば息子がね、もう今日はきつしてきつして、そんなら一時ばっかりやすまんの。今日は一日休めばよかじゃんのというか。それとも自分自身の体験からね、先日おや先生がいいよんなさった。今日は、今日という今日は、朝からきつかった。けれどもそこを詰めて、御神前にでられたら、半ばからもうそれこそ血が入れ替わったように、頭もすっきりするし、身体もしゃんとなったと云うような事をお話になっておったが、そこん所を大事にしていくのが、信心じゃなかろうかね、と例えばお話がでけたらね、息子はおかげ頂く。こげん時黙っとってち云うことはいらんよ。
はあ身体がきつか、もうくずるるごたる。はあ黙って祈る。そういう時には、もう向こうから云うならば、答えを求めておるような時だから、話してあげなきゃいけないのじゃないかと、そうでしょうが。黙って治めてとそげん時でも黙って我慢しとくちいうこつじゃない。それがね、なら、林さんの場合はいかに、黙って治めると云うことを実験しておられるかと云うことが分かるでしょう。だからそれがお取次ということにもなったんです。こげん時には、どう云うのが本当だろうか。黙って治めるちゃ容易いごたるばってん、やってみよると分からん所がでてくる。はあ、本当そういう言い方、自分自身にも体験があること。はあ今日はきついと思うけれどもそこを押しでてると又、元気な心が頂けると云う体験を持っておるのだから、その体験を云うなら、それを強制する事はいらん。
けれども話をしてあげるということは出来るよと云うて、まあ話した事ですけれども、ね、実験しよると、そこに行き詰まる、分からん所が出来る、そこから云うなら仕事が仕事を教えてくれ、信心が信心の道を開いてくれる働きが生まれてくるんです。問題はだから話を聞くばかりが能ではないということは、頂いた話を実験してみよと云うことなんですね。
そこから云うならば、例えば練り出される見地からえらい考える。寝ながら考えた、風呂ん中でどん考えついた事は大して、決してよかこつはなかね。一生懸命修行しよる時には、ふっと心の中にひらめいてくるもの、一生懸命教えを行じておるところから、云うならば感じてくる、云うならばひらめきならば、間違いがない。練り出すとはそういう事じゃないでしょうかね。 どうぞ